私たちはいつから孤独になったのか
現代の日本社会は、自由や平等が保障され、近代以前(江戸時代)に比べ、はるかに人間らしく、幸せな生活を営むことができるとされている。
これは本当だろうか。私は50代になって、それを疑うようになってきた。
もちろん、自由と平等は人類が長い歴史の中で獲得してきた普遍的価値であるが、一方で、近代以前から以後に向かって、一直線に進歩しているかのような考えは、短絡的なのではないか。
私たちはむしろ、この社会で孤独に、空虚になったのではないか。
近代市民社会の特徴は、西欧の市民革命(民主主義)や産業革命(資本主義)を背景に、個人の自由と権利(人権)が尊重されるところにある。
日本の場合、一般的には明治以降に(不十分な点がありながらも)近代市民社会が成立したといえる。
通例、人権というと、表現の自由や信教の自由など精神的自由権が注目されがちであるが、本稿で私がとりわけ考えたいのは、移動(居住・移転)の自由と職業選択の自由である。
近代以前の封建的身分制社会では、人は生まれながらに身分が決まっており、特に農民は土地に縛りつけられていた。もし農民に移動の自由があると、労働力の確保ができなくなってしまうからである。
身分とは職業のことであり、当時の人は職業の選択をめぐって、あれこれ悩んだりする必要がなかった。
明治以降、廃藩置県や四民平等(1871年~)等の社会制度改革が実施され、近代国家の体裁が整えられた。身分制度がなくなったこの時期、(事実上の制約はあったにせよ)移動の自由や職業選択の自由が実現したことになる。
この時期を境に(もちろん一気にではなく、徐々に)、人々は生まれながらの職業を失ったので、自分で探さなければならなくなった。
〇〇(地域)村の「私」、○○(職業)民の「私」としてのアイデンティティは失われ、「私」は何者でもなくなり、自分の努力で何者かにならなければならなくなった。
自由と平等を得たという点では歴史的には画期的なことだが、当時、それを「やった!自由だ!」と喜んだ人がどれほどいただろう。人々は何の頼りもなく、たった一人で、社会に放り出されたのである。
夏目漱石の個人主義
このあたりの問題について、個人主義の観点から当時、最も深く、本質的に考えた文学者に夏目漱石がいる。
漱石は1914年に、学習院大学で行った有名な講演の中で、個人主義は淋しいものだ、と言っている。
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。『私の個人主義』
今から100年ぐらい前の明治大正の当時、漱石ほど近代人の淋しさ、孤独について鋭く見抜き、自らの問題として深く苦悩した人はいない。
その苦悩の過程は、『それから』、『門』、『こころ』、『道草』、『明暗』などの名作を読むことで辿ることができる。
〇〇村の「私」、○○民としての「私」は失われたものの、○○家(戸籍)の「私」が仮構され、都市化がそれほど進んでいなかった当時の日本において、漱石が抱いた孤独は、どちらかといえば、精神的・理念的なものであるが、現代の私たちが抱く孤独と、生々しいほどに同じである。
個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。『私の個人主義』
○○村の「私」、○○民の「私」はとうに失われ、戦後の日本社会では、〇〇家の「私」も解体され、都市化と核家族化が進展した結果、東京都にあっては、単独世帯の割合は5割を超えている。(2020年国勢調査)
移動の自由があり、職業選択の自由があることそれ自体は世界史的な進歩で、その恩恵を受ける人もいる一方、どんな土地に住み、どんな職業に就くかなど、人生の一大事をすべて自分で決め、その責任を一人で負わなければならないことを、重荷に感じる人もいる。
漱石の「我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げない」とか、「人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定める」という生き方は、現代はむしろありふれたポリシーに感じられるが、漱石ほどの知識人でさえ「淋しい」とこぼしていたのだから、その心中は決して平穏ではなかったのである。
近代化が極限まで進んだ現代の私たちは、かつて漱石が味わった孤独のさなかにある。
それは近代市民社会の歴史的産物であって、個人の資質や努力の有無とは関係がない。
孤独を乗り越えるためには?
では、孤独から逃れ、乗り越えるためには、どうすればいいのか。
- 多層的・多重的な自己(アイデンティティ)形成
- 多層的・多重的なコミュニティへの参加
対策を2つに分けた上で簡略すると、上記のようになる。
具体的な対策については、次回以降、徐々に考えていきたい。

出典:『漱石の思ひ出』 夏目鏡子 改造社
